相場の数字をそのまま当てはめない

訪問看護のM&Aでは、年間売上高の何倍、取引件数が何件といった相場の数字が資料に並ぶことがあります。ただし、こうした数字の多くは出所が示されていません。中小規模の取引は条件が公表されないものがほとんどで、母集団も算定方法も確認できないためです。

相場の数字を見たときは、誰がいつ何件を集計したものかを確認してください。出所を示せない数字は、交渉の材料にも社内の意思決定の根拠にもなりません。この記事では相場の具体値は扱わず、評価で何が見られるのかと、売り手が先に整えられることに絞ります。

企業価値の代表的な見方

企業価値の算定には、大きく3つの考え方があります。どれか一つが正解というものではなく、実務では複数を突き合わせて交渉の幅を決めます。

  • 収益力から見る:営業利益に減価償却費を足し戻した利益(EBITDA)に一定の倍率を掛け、そこから有利子負債を差し引く考え方です。倍率の水準は業種や取引ごとに決まるため、他業種の目安は使えません。
  • 純資産から見る:貸借対照表の純資産を基礎に、資産・負債を時価に洗い替える考え方です。資産の少ない訪問看護では低く出やすく、単独で使われることは多くありません。
  • 将来の現金の流れから見る:事業計画上の将来キャッシュフローを一定の割引率で現在価値に直す考え方です。計画の前提が変われば結果も変わるため、前提の妥当性が論点になります。

いずれの方法でも、出発点になるのは過去の数字の正確さです。管理会計が整っていない状態では、どの方法を選んでも評価は保守的になります。

訪問看護で特に見られる点

買い手が訪問看護で重点的に確認するのは、次の点です。左から順に、何を見られ、なぜ見られ、何を用意するかを整理しました。

見られる点理由用意する資料
届出と実態の一致要件を満たさない算定は返還につながる届出書の控え、当番表、勤務実績、実績の集計
収益の継続性特定の紹介元への依存は引き継ぎ後に崩れやすい利用者数の推移、紹介元別の新規件数
看護職員の定着引き継ぎ後の退職は事業の継続に直結する在籍名簿、在籍期間、当番体制の記録
代表者への依存代表者が抜けると回らない体制は評価が下がる業務分担表、訪問・営業・判断の担当一覧
記録と請求の整合返戻や査定の多さは体制の問題を示す返戻・査定の推移、記録の様式

このうち、売り手が短期間で改善できるのは届出と実態の一致です。届出の内容と実際の体制がずれている場合、発見が交渉の途中になるほど条件に響きます。先に自分で突き合わせ、ずれがあれば是正してから話を始めてください。

指定が法人に紐づくという前提

訪問看護ステーションの指定は法人に対して行われます。介護保険法施行規則では、指定を受ける者の基準を法人であることとしており、例外は病院・診療所によるみなし指定に限られます。株式会社や合同会社の形をとっているのはこのためです。

この前提があるため、株式(持分)を譲渡する形と、事業そのものを譲渡する形とでは、指定の取扱いが変わります。どちらの形をとるかで必要な手続きも期間も変わるので、基本合意の前に指定権者へ確認してください。あわせて、利用者との契約、従業員の雇用契約、賃貸借契約の引き継ぎ方も、形によって扱いが変わります。

制度が動いた期間の数字は分けて出す

令和8年度の診療報酬改定は令和8年6月1日に施行され、訪問看護療養費の別表は全面的に差し替えられました。管理療養費の区分と額も変わっています。

改定をまたぐ期間の月次の数字をひとまとめに出すと、増減の理由が制度によるものか事業によるものか区別できません。買い手に提出する資料では、改定前と改定後を分けて並べ、制度要因と事業要因が読み分けられる形にしてください。ここを整理しておくと、質疑の往復が減ります。

売却を考える前に整えること

事業承継の準備は、相手を探す前の段階で差がつきます。時期の目安ごとに整理します。

12か月前までに行うこと

  • 届出書の控えと実際の体制を突き合わせ、ずれがあれば是正する
  • 月次の管理会計を整え、保険種別・利用者別の収益が出せるようにする
  • 就業規則、雇用契約書、当番手当の規定を現状に合わせて更新する

6か月前までに行うこと

  • 利用者契約書と重要事項説明書の様式を統一する
  • 紹介元別の新規件数、利用者数の推移を1枚にまとめる
  • 個人情報の取扱いと記録の保管状況を点検する

3か月前までに行うこと

  • 許認可の更新状況、指定の有効期間を確認する
  • 未収金・未払金を整理する
  • 従業員への説明の時期と範囲を決めておく

まとめ

訪問看護のM&Aでは、出所の示されない相場の倍率や取引件数をそのまま自社に当てはめないことが出発点です。評価では、収益力の見方が複数あることに加え、届出と実態の一致、収益の継続性、看護職員の定着、代表者への依存度、記録と請求の整合が見られます。

指定は法人に紐づくため、株式の譲渡と事業の譲渡では手続きが変わります。令和8年6月1日から訪問看護療養費の別表が差し替わっているため、改定をまたぐ数字は前後に分けて提示してください。準備の中心は、届出と実態を自分で突き合わせ、ずれを先に直しておくことです。

出典